No.6 芝赤羽にできた異人旅館(外国人接遇所)


ある年表によると安政6年3月10日に
江戸の芝赤羽(赤羽根)に外国人旅宿用地が確保されることになりました。
時代の要請で幕府が設けたものと思われますが、
どのような役割を担うことを目指したのでしょうか。


左の古文書(こもんじょ)は安政6年5月19日付の今で言えば土地の登記簿にあたるのでしょうか、下の絵図と一緒に認められた文書です。異人旅館の敷地について定めた内容になっております。

芝赤羽根講武所附町屋敷弐千八百六拾坪余、此度外国人旅宿の場所に被仰出候に付、 右地所外国奉行方へ被成御渡之四方間数御絵図の通相違無く請取申候為後日仍如件
安政六未年五月十九日
外国奉行支配調役並 渕辺徳蔵(印)

......上記古文書の解釈は神奈川県相模原市の西川浩さんのご協力によります。

これが書かれた安政6年は、日米修好通商条約(安政の仮条約)が勅許なしで結ばれてからほぼ1年後でして、いよいよ神奈川、長崎、箱館の開港が現実になった時期です。外国人をどう迎えるか、まずは泊まるところでしょうね。 上から下まで大変なことになったようです。

「黒船」以来、幕府以下我が国は受け身の姿勢のようで、外国勢に言われて慌てるような体質らしいです。政事を担う幕府が外国勢の言いなりになっているように見た若者高杉晋作や坂本龍馬ら、いわゆる志士と呼ばれる人達(若者)が憤慨するのは当たり前でしょう。若さの特権です。

また、この安政6年という年は、あの「安政の大獄」の処罰が決まった年でもあります。

徳川幕府の体制を揺るがすような意見、行動を押さえつけ、何とか外国勢へ対応しなければという国際戦略模索の幕府政策を感じます。条約批准という手続きのため遣米使節の護衛艦として、「咸臨丸」の乗組員が決まったのもこの年です。

このような背景の中、異人旅館が建てられました。利用状況の資料は手元にあまりありませんが、維新以後の「鹿鳴館」のようではなかったようです。
データベースを探しますと異人旅館のお客さんとして、プロシャ公使 オイレンブルグ(Friedrich Albert Eulenburg)、 かのシーボルト(再来日)がおりました。

右の絵図は異人旅館の敷地を表した証文です。絵図の右上隅が東になり芝の増上寺があり、 絵図の上あたりに今の東京タワーがある位置です。
広さは「弐千八百六拾坪」とありますから今で言えば、1間を 1.8mとして、約 9300平方メートル です。ちなみに絵図での縦方向の長さが「七拾五間壱尺」、約 135mになります。大きな大名屋敷と同じ規模でしょう。そして、証文によると、増上寺別院心光院、増上寺、順了寺、門前町名主正三郎さんの立合い確認の印があります。一応、ご近所の了解があったようです。
また武江年表によると飯倉町続き下曽根侯御預り調練場明地へ異人旅館が建てられたとあります。この場所は現在の赤羽橋の北にある「飯倉児童館」付近になるようです。

参考資料:徳川十五代史、旧幕引継書中の屋敷渡預絵図証文(国立国会図書館所蔵)等 /2011.3.7

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