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大政奉還により徳川幕府は政権の座から降りることになります。これからは朝廷主導になりそうだとは皆が認めることですが、徳川幕府がどうなるのか、実際はどのような形になるのか明確に・具体的に分からないのが実情ではないでしょうか。このような中、大名諸侯は、当時の行動規範である「君臣の義」をどのように考えたのでしょうか。
譜代大名の越後高田藩主榊原政敬の上書では、「榊原家は三河以来の譜代で数百年の恩(諸侯の家が今に存続できたのは、徳川の恩)がある。朝廷より頂いた官位を返上し、祖先以来の遺志を継ぎ臣下の節を全うしたい」と言っております。
また慶応3年11月に江戸赤坂紀州藩邸で譜代藩の重臣が集まった際にも「君臣の分を一層尽くす」と確認されています。
津和野藩最後の藩主亀井茲監と末家亀井勇之助との書状でのやりとりでも「君臣の義」について確執が見られます。
亀井茲監の言い分
津和野へ戻るよう指示したが、かれこれ分からない理由で遅延している。徳川家は朝敵となってしまったので、酔夢を悟り、義不義を分別し、すみやかに江戸を出発するように厳しく沙汰したが承諾せず。かえって徳川方へ組し、お役目を勤めるとは不忠至極、天地に容れられない罪科、本家を軽蔑し我意を通すこと不義無比である。本家末家の関係を永く義絶する。
上記に対する末家亀井勇之助の言い分
徳川家が朝敵の汚名を受け、徳川に仕え役目も務めていることに対して義絶と申しておりますが理屈が通りません。
徳川家は朝敵ではないことは天下万世に顕然であり、一時的汚名を受けたにすぎない。したがって後世のそしりを受けないため処置することが宗家のためである。
「不忠至極」と言っておりますが誰に対しての不忠でしょうか。私の場合徳川家の外に君と仰ぐものは居ません。したがって不忠の覚えはありません。存亡盛衰により武士の節操(忠義)を変えるべきではないでしょう。
このような確執はあちこちの藩であったと予想できます。
従来、君臣の義は徳川将軍の臣下として大名があるという位置付けでしたが、この階層に天皇とその周辺である朝廷が割り込んだ形になったのです。これにより階層の形を変えざるを得なくなり、天皇を頂点とし、その下の階層に徳川将軍、さらにその下に大名諸侯と言う形ではなく、天皇の下に徳川将軍と大名諸侯が王臣として同列の形で進められたのです。
前述の赤坂紀州藩邸会議では「諸侯が上京すると王臣となり、このとき徳川幕府と諸侯との恩義が絶えるかもしれない」と危惧しています。すなわち、徳川家と諸侯は、ともに王臣となって、君臣の関係は、瞬時にして消滅すると考えられたようです。
徳川家は最終的に400万石ほどから70万石に減封され大名の列に入りました。
旧徳川幕府の家臣たちの中で新政府に仕えることにした人がおりますが、自分自身どのようにけじめをつけたのでしょうか。徳川家に恩を受けたのですから、徳川家に恩を返す(徳川家に対して義理がある)ことになりますが、何をすれば良いのでしょうか。自問自答する姿が見えるようです。
旧家臣たちは「君臣の義」に優る論理を展開したのか、あるいは忠義の対象を天皇に変えたのでしょうか。」
大政を奉還することにより、君臣の義についても少なからず影響を及ぼしていると思われます。最終的に家門(尾張藩、和歌山藩)は新政府の上級職に就いておりますから、奉還はしがらみをリセットする仕掛けのようです。
薩摩・長州などは徳川家に対する「君臣の義」を捨てたように見えます。ひょっとして関ヶ原以来君臣の義は持っていないのかもしれません。捨てるには、その批判に耐えられる、あるいはそれに優る行動規範が必要になるはずで、この規範はいわゆる「尊王」になるのでしょうか。君臣の義の解釈は、昔から不動のものになっているのですが、尊王の解釈は分かったようで具体的には分からないのです。
徳川家から受けた恩を返すには、何をすれば良いのでしょうか。まして大政を奉還したことにより、ますます恩返しの仕方が難しくなったようです。
参考資料:旧幕府、復古記など/2011.8.7