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No.57 幕末の私塾はさまざま、一律の指導要領はないでしょう
幕末資料庫(*1)で「塾」を検索すると、さまざまな塾が出てきます。
平成の世から見ますと、危険極まりない塾も相当あるのです。
*1:幕末資料庫については幕末フォーラムをご覧下さい。
教育内容の品質はともあれ、各地に多数の種々な塾があったようです。
現代のカルチャーセンターのように各地にあるようですが、
今と違うのは非常に思想教育的な色彩の強い塾が目につく印象です。
検索した塾をその場所で分類して、並べてみます(適宜追加しています)。
*体育会系の塾(道場等)は、私自身体育会系でありますが除きます。
| 場所 | 主催者 | 教育内容など |
|---|---|---|
| 秋田 | 豊間源之進 | 雷風義塾、国学塾、小野崎通亮と共同、大和田正治邸内に設立 |
| 上州新田郡 | 生田万 | 太田町大光院大門東側の国学塾(生田万の乱首謀者) |
| 水戸 | 原市之進 | 水戸五軒町の菁莪塾、塾生に藤田小四郎 |
| 常陸志築藩 | 鈴木三四郎忠明 | 高浜大橋村の村塾、伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎の父、高野山本王院の許可 |
| 下総佐倉 | 佐藤泰然 | 江戸の開業医から学塾順天堂(塾というより病院か) |
| 武蔵 | 寺門靜軒 | 武蔵国大里郡妻沼村の両宜塾 |
| 桃井可堂 | 榛沢郡中瀬村に開塾、桃井は志士で儒者 | |
| 江戸 | 安積艮斎 | 土佐の間崎哲馬(滄浪)が塾頭で、小栗上野介の屋敷内の塾、小栗はそこで八才から漢学の手解きを受ける |
| 池田徳太郎 | 麹町の塾 | |
| 生方鼎斎 | 書道塾で清河八郎が学ぶ | |
| 江川太郎左衛門 | 芝の新銭座の高島流洋式砲術塾、縄武館(塾頭高島喜平(秋帆)) 、鋳造技術、兵学 佐久間象山も入門 | |
| 大橋訥庵 | 日本橋橘町の私塾、思誠塾、大橋家(太物商佐野屋大橋淡雅)の養子となると同時に開塾 | |
| 小笠原甫三郎 | 集成館(高畠五カが洋籍、八木数馬が西洋砲術、関鉄蔵が習字、小笠原が数学測量) | |
| 勝麟太郎 | 勝海舟の赤坂田町の私塾(氷解塾)、代講杉享二は日本統計学の開祖 | |
| ? | 日本橋田所町の算学塾、講師金盛吉之丞は世良修蔵を襲うが銃撃され引き返す | |
| 清河八郎 | 神田三河町の経学文章指南所(清河25歳) 、安政元年開塾、同年焼失 | |
| 清河八郎 | 薬研堀に安政2年開塾、江戸大地震で潰れる | |
| 清河八郎 | 駿河台淡路坂に安政4年8月開塾、( 安政6年春出火で焼失) | |
| 清河八郎 | 神田お玉ケ池に開塾、「経学・文章・書・剣教授」(虎尾の会) | |
| 古賀茶渓 | 古賀謹一郎、久敬舎、幕府の昌平校へ入るための予備校的存在 、儒学 | |
| 近藤真琴 | 攻玉社、文久3年開塾、数学・英語・航海術 | |
| 斎藤拙堂 | 古文の塾 | |
| 佐久間象山 | 神田お玉ケ池の象山書院(五柳精舎)、天保10年開塾 | |
| 佐久間象山 | 木挽町の砲術塾、嘉永4年開塾、吉田松陰入門 | |
| 佐藤一斎 | 佐藤一斎塾(通称左門)、佐藤は幕府昌平校塾長、別名陽朱陰王(表向きは官学の朱子学、信じるところは陽明学)、左門の二傑として山田方谷、佐久間象山がいた また、塾生長岡藩高野虎太郎は河井継之助の入門に影響を与える | |
| 下曽根金三郎 | 芝赤羽橋々畔の砲術塾、膺懲館 | |
| 高野長英 | 麹町の塾 | |
| 坪井信道 | 医学塾、蘭方医坪井信良が養子、橋本左内が入塾 | |
| 東条一堂 | 清河八郎が学ぶ | |
| 鳥山新三郎 | 弘化3年日本橋桶町に開設、尊王攘夷を教える、獄中の吉田松陰に金品提供 | |
| 中浜万次郎 | ジョン万次郎、江戸本所南割下水の江川太郎左衛門邸で塾 | |
| 松平金次郎 | 麹町の麹渓塾:塾頭林三郎(会津藩) | |
| 福沢諭吉 | 江戸築地鉄砲洲の中津藩江戸中屋敷で蘭学の塾、慶応義塾の初め | |
| 福沢諭吉 | 芝の新銭座に塾を移転し慶応義塾と命名 | |
| 村田蔵六 | 大村益次郎、江戸番町の新道一番町の鳩居堂(シーボルトの娘楠本いね寄寓、久坂玄端が入塾) | |
| 梁川星巌 | 玉池吟社、詩 | |
| 横浜 | 尺振八 | 英学塾、左腕を落とした伊庭八郎が一時潜伏 |
| ヘボン | 横浜居留地で英語塾、1863年開設し施療所が併設されていた | |
| 甲州 | 武藤外記 | 振鷺堂(しんじゅどう)甲州檜峯神社神主が開設・主催、黒駒勝蔵の師、国学 |
| 大垣 | 菱田清次 | 私塾光風霽月舎、読書・算術・習字 |
| 尾張 | 上田帯刀 | 自邸に尾張洋学堂を設けて海防の研究会、後藩校尾張洋学館となる |
| 森春濤 | 文久3年、名古屋に桑三軒吟社を開き漢詩を教える | |
| 富山 | 小西石樵 | 寺子屋臨池居、小西石樵が開設 |
| 岡田信之 | 学聚舎、開設は岡田淳之 | |
| 近江 | 梅田雲浜 | 大津に湖南塾を開き、山崎闇斎学を教授 |
| 京都 | 赤松小三郎 | 家塾、洋式兵学 |
| 梅田雲浜 | 士籍を削られ京都で開塾 | |
| 岡田月洲 | 京都新町通夷川の岡田塾 | |
| 寺島白鹿 | 朱子学、門下生として山田方谷、春日潜庵 | |
| 中沼了三 | 烏丸通り竹屋町下ルの塾、中沼は学習院講師、中岡慎太郎が入門、門下には十津川の郷士や薩摩の士が多い | |
| 長野義言 | 高尚館(桃廼舎(もものや)) | |
| 人見勝之丞 | 京都文武場の文学教授の私塾(幕府遊撃隊隊長人見勝太郎の父) | |
| 広瀬元恭 | 時習堂、嘉永2年には存在、蘭学 | |
| 藤本鉄石 | 伏見で軍学の塾(大和五条代官所襲撃に参加)、備中、備前でも開塾 | |
| 内藤正縄 | 言志塾、伏見奉行内藤正縄が伏見に開く | |
| 大坂 | 大塩平八郎 | 洗心洞塾(大塩の乱首謀者) |
| 緒方洪庵 | 大坂船場の適塾(適々斎塾)、蘭方医藤本鉄石も講義(嘉永4年秋) | |
| 高良斎 | 医学塾昭淵堂(シーボルトの鳴滝塾塾頭) | |
| 篠崎小竹 | 梅花塾、塾頭に海防僧の月性 | |
| 藤井藍田 | 大坂南堀江の絵画塾、安政の初めに開かれる | |
| 藤沢東? | 大坂泊園書院、尊王奉公が中心で、名は天下に高かった | |
| 松林飯山 | 肥後大村藩の医師の子、堂島の双松岡塾(松本奎堂が塾生) | |
| 神戸 | 勝麟太郎 | 神戸海軍所、年間三千両の費用 |
| 紀州 | 華岡青洲 | 日本初の麻酔で有名な塾、紀州春林軒 |
| 姫路 | 河野鉄兜(てつと) | 林田藩で家塾、河野は林田藩学敬業館の教授を歴任 |
| 備中松山 | 山田方谷 | 牛麓舎、塾生に三島中洲、矢吹久次郎ら |
| 山田方谷 | 長瀬塾、明治元年開塾明治2年までに6棟の塾舎を増築 | |
| 三島中洲 | 虎口渓舎(ここうけいしゃ)、自宅を新築して開塾 | |
| 周防 | 大楽源太郎 | 周防国大道(台道村)の家塾西山塾(西山書屋)、大楽は冷泉為恭暗殺、門人達は大村益次郎暗殺に関係、高杉晋作の下関挙兵に呼応する忠憤隊を組織 |
| 長州 | 吉田松陰 | 萩の松下村塾 |
| 玉木文之進 | 天保13年松下村塾を開く、塾生に吉田松陰、杉民治、宍戸?が居た | |
| 宇和島 | 高野長英 | 五岳堂 |
| 土佐 | 間崎滄浪 | 江ノ口小川淵の私塾 |
| 樋口真吉 | 土佐藩士で土佐中村に家塾、門下の者は土佐勤王党加盟が多い | |
| 吉田東洋 | 土佐城南長浜の少林塾(後藤象二郎、福岡藤次(孝弟)、間崎哲馬、岩崎弥太郎らが学ぶ) | |
| 肥前 | 秀島寛三郎 | 明倫塾、松浦郡に設立、秀島は庄屋・儒者である 秀島は上記の他に、厳木村に会輔塾、中島村に五惇堂を開く |
| 豊後 | 広瀬淡窓 | 漢詩人、日田郡堀田村の咸宜園塾、広瀬淡窓は豊後日田から一歩も外へ出なかったと言われる (高野長英、村田蔵六、上野彦馬も門人) 毎月の試験月旦評という成績の発表がある。塾生4,800人、江戸時代最大級の私塾 |
| 豊前 | 渡辺重石丸 | (いかりまろ)中津藩道生館、渡辺重石丸は国学者で京都皇学所から招聘された |
| 長崎 | 高島秋帆 | 高島流洋式砲術塾 |
| 肥後 | 池部啓太 | 算術塾、肥後藩における西洋科学啓蒙の祖 |
| 横井小楠 | 熊本城下相撲町の家塾小楠堂(楼)、寄宿が出来る | |
| 木下真弘 | 弘化3年に菊池郡今村に開設した古耕舎、明治元年まで続く。木下の号は梅里 | |
| 長野濬平 | 玉名郡南関に弘化4年に開塾、長野は横井小楠の門下生 | |
| 野尻維則 | 有終館、野尻は七卿落ちに随従、河上彦斎と設立したが即解散 | |
| 鹿児島 | 是枝柳右衛門 | 商家生まれの是枝による私塾、是枝は井伊直弼を暗殺しようとして国を出る、寺田屋事件参加 |
塾で教える、習得する内容を上記の表から拾うと、儒学、経学、国学、漢学、医学、書道、砲術、算学、古文、蘭学、英学、軍学、海軍技術があります。この他に、当時として、心学、天文学、兵学、農学がありました ので、これらについての塾もあったと思われます。また複数を教える塾もあったでしょう。幕末の頃は西洋からの学問も多く入ってきており、なかなかにぎやかなものと予想します。
また、全国一律の指導要領みないなものはないでしょうから土地柄を反映した教育内容もあったと予想します。現在でも、教育委員会は地方の管轄ですから、地方独特の教育テーマを育てることもあるでしょう。北海道と沖縄では相当違う教育テーマもあってしかるべきかと思います。教育内容が全国一律に同じでは、学力テストなどで比較したくなるのは人情です。幕末の蝦夷から琉球まで、土地に密着した教育テーマを探してみることも意味のあることと思います。
塾生の年代は、現代の高校生から大学生、社会人の30歳代、がほとんどでしょうから、上記一覧の塾の教育と現代の大学、専門校教育とを比べてみることは、それぞれの教育の仕方の差をあぶりだすには良いかもしれません。
上記一覧表で、生田万、高野長英、藤本鉄石、大塩平八郎、吉田松陰、是枝柳右衛門、大楽源太郎などは、先生自ら大それたことをやっており、体を張って、お上に反抗しているのです。 幕府から見れば、どんでもない危険人物が教育を担当しているのです。
彼ら危険人物が教えていた学問は、実用的な学問ではなく為政者への批判的、思想的なものになりますから、為政者が気をつかうのです。
一覧表の中でも教育者としての評価が高い吉田松陰ですが、彼も幕府から見れば危険人物です。松陰自ら白状した間部詮勝の暗殺計画などは
、幕府にとって許し難い、とんでもないものです。吉田松陰の教育の結果を見ると、彼自身とその側近の門下生は死を選んだように見えます。結果として死を伴う行動をせざるを得ない考え方を採用しているようで、これは、果たして「教育」といえるのかと疑問があるのです。都合の良いように利用される危険性を感じます。
加えて安政2年3月に吉田松陰は好戦的な意見を月照上人に手紙で述べています。
「ロシア・アメリカとの条約は信用の面から破棄すべきではない。条約を厳守し、その間に国力を養い、朝鮮・満州・支那を配下に治め、ロシア・アメリカとの貿易で失ったものは朝鮮・満州を支配することにより償うことが必要」と言っております。非常に好戦的であり若者達には受けが良いでしょう。吉田松陰は死を含むものであれ、信じた自己の教育方針を吸収させる技術に優れたものを持っていたのでしょう。
「死ぬ気でやるのは良いのですが、死んでしまっては、次世代が生きるための希望を持つことができないような気がします」。 教育とは何を教えるのかという根本テーマにもどることが必要でしょうか。
江戸時代の私塾に詳しい、Liu Qi さんのページです。
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