![]()
No.56
薩長同盟....「同盟」とはチト大袈裟でないでしょうか
2002.10.19/2006.9.10
立ち会った坂本龍馬は、盟約とも約定とも言っておらず「談論」と言っています
そして、木戸貫治の行動は「根回し」そのものと思います。
慶応2年正月21日(1866.03.07)、京都二本松薩摩藩邸で小松帯刀・西郷隆盛・木戸貫治(桂小五郎)・坂本龍馬などにより
「薩長同盟」の盟約があったと言われ、通説ではこれにより、当時の薩長2大勢力が手を組んだことになっております。
小松と西郷は前年の10月25日に数百の兵を率いて京都に入っており、
木戸は品川弥二郎と薩摩の黒田了介(清隆)らと正月8日に京都に入っております。
そして坂本龍馬は正月20日に京都に入っております。
坂本龍馬が朱で裏書した木戸貫治の手紙が「薩長同盟」なるものを次の世に紹介しておりますが、
残念ながら参加者の印あるいは署名がある文書ではないようなのがつらいのです。
そもそも、同盟の証となる文書があったのかなかったのかも不明です。
|
多分、ないのではないかと類推します。というのは、木戸が薩摩と長州の打ち合わせ内容を書いた手紙に坂本龍馬の裏書をお願いしているのです。裏書がなぜ必要なのでしょうか。誰かに薩摩と長州の約束の内容が相違ないとの証明をする必要があったのでしょう。ということは
人に見せる文書がないか、あっても盟約文書とはほど遠いメモ程度で参加者の署名などがないと見ることができます。あるいは紛失したのでしょうか、紛失はないでしょう。 ついでに言えば、薩摩から坂本龍馬に裏書要請はあったのでしょうか。薩摩はこの打ち合わせをどのように位置づけていたのでしょうか。京都薩摩藩邸での木戸への のんびりした応対から類推すると、薩摩にとって大きな意味を持っていない可能性もあります。
薩長同盟の内容は木戸の手紙からしか得られないのです。木戸貫治の言う薩長盟約は以下の6項目でした。(もし薩摩側が坂本龍馬に手紙を出した場合5項目、あるいは7項目かもしれません)打ち合わせ時点で署名し文書を作成してあれば、わざわざ坂本龍馬に裏書などしなくとも良いと考えるのが常識です。 |
| 1.戦と相成候時は直様二千余の兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両所相固め候事。 この時期、戦は幕府と長州の間で起こる戦争を意味し、増兵(薩摩兵でしょうか?)は京都、大坂を固めるのが上記文章の主旨です。 兵士は戦場となるところへ派遣するはずです。すると戦場は京大坂地方となりますが、この場所では長州側不利と思われます。それとも西へ向かう幕府兵力を京坂で潰す作戦があったのでしょうか。 京坂に戦になる状況があったかどうかですが、この時期大坂城には将軍家茂以下が陣を構えておりますし、家臣団が、市民が「迷惑」と記録を残すほど居るのです。 片や長州側と言えば、新たに長州藩家老中井原主計ら130名ほどが上京した程度しか情報がありません。「只今在京之兵」の戦力はどの程度なのでしょうか。大きな兵力があれば緊張状態が生まれるはずですが、その様子がありません。これでは京坂で戦争が起こる可能性はない のではと思われます。「戦に相成」る状況はないように思えます。戦が起こるのは2年後の鳥羽伏見の戦いです。 京坂地区での戦いが起ることはないはずです。木戸の手紙の第1条の背景をもっと調査する必要があります。 |
| 2.戦自然も我勝利と相成候気鋒相見候とも、其節朝廷へ申上、きっ度尽力之次第有之候との事。 戦局が長州藩の有利になっても、薩摩藩は朝廷へ上申して、長州藩のために尽力する。 第2条での注目は薩摩は長州のために朝廷に対して「何を」尽力するかという点です。 幕府に勝利したという前提に立った場合、もう長州にとって幕府に遠慮はいらなくなります。 朝廷と長州の間の関係を取り持ってもらうものは何でしょうか。 これは次の第3条でも同じように出てきます。 3.万一戦敗色に相成候とも一年や半年に決て壊滅致候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第きっ度有之候との事。 長州が負けた場合でも、長州藩は1年や半年で壊滅しないので、必ず尽力して欲しい。 幕府に負けても長州藩があるかぎり朝廷に対して尽力して欲しいと言っております。薩摩に依頼しておりますので薩摩には不都合のないものと思われ、第4条に出てくる「寃罪は従朝廷御免」への尽力ではないでしょうか。冤罪とは、3年前の文久3年8月の8・18クーデター以来の【朝敵という烙印 】と思われます。 4.是なりにて幕府東帰せし時はきっ度朝廷へ申上、直様寃罪は従朝廷御免に相成候都合にきっ度尽力の事。 |
さて、 第2条から第4条までをまとめると、幕府と長州との戦で長州が勝っても、勝負なく幕府が江戸へ戻っても、そして長州が負け、壊滅するまで生き残っている間も冤罪を許してもらうため尽力して欲しいとの主旨になるでしょう。
| 5.兵士をも上国の上、橋、会、桑等も如只今次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り正義に抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に及決戦候外無之との事。 幕府が兵力を増強し、会津・桑名藩なども強硬の姿勢をとり続けるときは、薩摩藩は幕府と決戦に及ぶ。 と解釈されているようですが、「終に及決戦候外無之」は決戦しか道が残されていない。という意味にとることができ、決戦するとは言っていないようです。冤罪をそそぐため には戦いも止むを得ないと言っているのではないでしょうか。 6.寃罪も御免之上は、双方誠心を以て相合、皇国之御為に砕身尽力仕候事は不及申、いづれの道にしても今日より双方皇国之御為、皇威相輝き御回復に立ち至り候を目途に誠心を尽して尽力可致との事。 長州藩の冤罪が晴れれば、薩長双方とも、誠心をもって一体化し、皇国のため、皇威発揚のため、きっと尽力する。 長州の冤罪が解かれたときのことを想定しています。冤罪が解かれたら皇国の威光回復ため力を尽くすとあります。 長州が朝廷に損害を与え、京都を大火事にした禁門の変から1年半しか経過していない時期に、皇国の威光回復のため尽力すると言っております。京都市民の反感はまだ消えていない状況でしょうから、表に出してはいえない状況でしょうし、薩摩としても話だけは聞いておくという程度だったとみるのが当たっているのではないでしょうか。 幕府と朝廷との両方から嫌われている状況では立つ瀬がありません。長州にとって、朝廷との関係を修復することが、急務の課題です。 |
|
最後に、 桂小五郎の要請により坂本龍馬の書いた裏書(2月5日付) 表に御記被成候六条は小(小松帯刀)、西(西郷隆盛)両氏及老兄、龍等も御同席にて「談論」せし所にて毛も相違無之候。後来といえども決して変わり候事これなきは、神明の知る所に御座候。 坂本龍馬は「談論」と言っており、同盟あるいは約定とは言っておりません。「同盟」、この言葉は大袈裟でしょう。 まして根回しの状態のようですから......(薩長同盟の兆しは、ひょっとして太宰府周辺(筑前藩士)にあるのではないかとも感じておりますので調査してみます) 「薩長談論」に対して木戸がわざわざ裏書を要求したことは、この手紙の利用方法を類推させるものであり、興味のあることです。坂本龍馬の名前を有効とする人々・団体への対策と思われます がいかがでしょうか。 世の中が言う薩長同盟がなったと言われる京都二本松薩摩藩邸での薩長幹部の会談は、 長州側は早急に朝敵の汚名を雪ぐため薩摩に尽力を依頼し、薩摩は長州の出方を見たという双方の腹の探りあいではなかったかと思われます。薩摩にとって朝廷側が長州とつながることは要注意と思われます。 そして第3者的な坂本龍馬の取り成しは、彼自身にとって、何を主眼としていたのでしょうか。 そして、坂本龍馬が裏書した木戸の文書のおしまいに近い部分に、「兎角いつでも正義家は機会を失し候等の事は其ためし不少、終に姦物の術中に陥り候事、始終に御座候間」とありますが、この姦物を、幕府と見るか、薩摩と見るか、あるいは他のものと見るか、これが同盟か談論かを決めるポイントでしょうか。 京都二本松薩摩藩邸での談論は、長州の活動を制限する朝敵の汚名、を消すための長州藩の仕掛け・根回しであり、薩長同盟前夜の動きだと見ています。 長州と薩摩の関係がどのように変わってきたのかを、時系列で整理し、京都二本松薩摩藩邸での談論月日と実利が絡む関係などをKJ法などを使って整理して見たいと思います。また、長州の朝敵という汚名はいつ消えたのかも調査する必要があります。
........さて、薩長談論・根回し?の話はいかがでしたか、調査項目はいずれ暇を見つけて取りかかります。 |
参考: 歴史読本、検証坂本龍馬の全仕事など
目次に戻る